修業時代から現在まで

■修業時代

今から40年程前は、日本からフランスにコックの修業に行く人は

ほとんどいなかったという。

野村シェフが十代の頃、「いずれはコックになってフランスに行きたい。

と母親に伝えると、「一流のコックになるのであれば」と許してもらえたという。

その言葉通り、慣れない土地にも8年腰を降ろし、約束を果たした。

渡仏前は、当時日本の業界で有名だったニューグランドホテルの山田氏と

仕事を共にし、明治記念館や、高級レストランのアルテリーベに勤める。

ここで、フランスの一流ホテル「クリヨン」に勤めていた山中氏と出逢い、

フランスへの糸口をつかむ。20歳でスイス・フランスに渡ると、

認めてもらう為に眠る時間も惜しんで仕事に徹した。

■渡仏

スイス・チューリッヒのホテル「グロッケンホッフ」でパティスリーの技術取得後、

南仏にてホテルレストランシェフ、

その後フランス・パリに渡り「ホテルクリヨン」でトゥールナンとして

調理場全部門を経験。パリには約3年いた。

※「ホテルクリヨン」は当時、各国の大統領などが宿泊していた為、

一般の人は、あまり宿泊できなかった一流ホテルである。

クリヨンでの経験の後はモナコへ

モンテカルロ国営ホテルやレストランシェフ等5年歴任。

モナコは地中海に面し、地球上の楽園ともいえるところだとか。

当時を振り返り、我が青春時代だったと語る。

「パリから列車で行くと、コバルトブルーに輝く地中海が目に入り

乗客の皆がその美しさにどよめく。

山は春、海から観るとミモザが一面に咲き綺麗な黄色い山々になり

季節に合わせ色とりどりの花が咲き、夏は、野生のハーブを採り、

秋は、枯れたような木々に、ラズベリー、カシス、ブルーベリーや

木の実が一杯 両手でちぎるように取って食べる。

又、友人達にも恵まれ本当に天国で過ごした年月だった」

■帰国後

フランスで合計8年修業した後、帰国。東京青山でレストランを開業。

銀座のフレンチ等も監修するなど数年した後、縁あって神戸に移る。

神戸では当時随一と言われた高級レストラン「トゥールドゥール」にて、

料理・サービス共に総括シェフとして就任。

その腕を見初められ、大手企業のゲストハウスサービスとして協力を

依頼され、政財界の重鎮をもてなす為の迎賓館で手伝うも、

そこでさらに最大手の財界人に認められ、専属の「迎賓館」に勤めることと

なる。そこは国内外の要人のもてなしが主とされ、各国の政界を左右する

人物ばかりだったとか。

■迎賓館での経験

当時を振り返り、サービスのスタッフも最後まで完結できたときは

胃を抑える者もいれば、土下座して礼をする者もいたという。

それだけ気を遣うものだったそうだ。

しかし野村シェフは、気を遣わない気の遣わせ方も必要だと語る。

それに大事な事は、どれだけ料理に、相手に想いが込められているか。

料理を作る前に、事前に食したい物の情報が入り、船を出して

一回の料理代金が10名にも満たないのに数百万の予算が

かけられる事も度々。

(それぐらいの金額は当時は普通であったとか)

テーブルに飾る一輪の花でも、どのように飾るか悩んだという。

ある時、仕入の関係で六甲山の山の中に入っていた時、

綺麗な山ゆりが目に留まった。それはとても心を捕える美しい姿形で、

あるお客様に次の来館の際はこの「ゆり」を飾ろうと決め、

来館の日に合わせて再び山に入った。

そして当日、お客様(ご婦人)が「野村さん、これ、どうしたの!」と

歓喜の声を上げるではないか。

「実はこの山ゆりを見せたくて、六甲山に取りに行って来ました」と告げると、

「野村さん、貴方、ご馳走の本当の意味が分かっていたのね」という言葉を

頂いた。(この時のことを昨日の事のように話す表情は、

本当にこの仕事が好きなのだなと感じる瞬間であった)

また、当時の経営者にも、よく経営や政治に関する事をよく聞かれたという。

若い頃に先輩から「知力を身に付けなければ人や運営をまかす事はできない」と言われた事を忘れず、「理には理を、知には知を、力には力を持って対処する。また対処できるようにそれぞれを身につけておくべき」を心情としていた事から、膨大な量の本を読み漁り、技術も習得する。

また、料理の技術だけではなく「ホテルレストランサービス1級(HRS)」も

取得するなど努力に暇がない。

仕事はどれだけ多くの人に「あの人の言うことだったら間違いない」と

思わせられるかどうか。少しずつ経験と記憶を自分なりに応えていく。

「気が付くと、料理だけでなく経営マネジメント、人を扱う事、レストランの事、

様々な事をお話しさせていただいた」と昔を振り返る。

20代前半の頃のスイスの滞在許可証、

パリ クリヨンホテルの滞在及び労働許可書

モナコの風景

パリ ホテル クリヨン

■ホテル総シェフ、そして開業

迎賓館での経験を積んだ後、関連会社であるホテルから要請があり、

総料理長として7年勤務。

その後、再び神戸でフレンチ・レストラン「デリス」を開業。

レストランと並行に、スープ専門の「スープファクトリー」も展開し、

四国にも工場や関連会社を設けるが、100年に1度の金融危機により

経営に影響を大きく与えるが、この時の経験も大きな糧となる。

■現在

これまでの経験を生かし、一流のプロでも難しいとされる技術を

駆使して食品の生産、加工、生産工程のアドバイスとコンサルティング、

大手企業やレストランとの研究開発・商品開発を行う。

また、政策プロジェクトとして地域活性化と貢献にも協力し、

町の子供達に食を通じての文化交流も行う。

その他、豪華客船のイベント、プライベートハウスとの契約、

特別顧問等、いわば食のパーソナリティといえる人物である。

これからどんな事をするのか、これからも注目していきたい。

現在、本業の他、高知の子供に料理を通して育む

地域の社会プロジェクトにも参加