『独眼竜正宗』といえば誰もが知る戦国武将、伊達政宗。
当時、豊臣秀吉や徳川家康でさえも一目置いたという人物である。
そんな伊達政宗も、幼少の頃に病によって右目を失明し、
自閉的になっていたといいます。そんな正宗を変えたのが、
傅役(もりやく=養育係)であった片倉小十郎 景綱。
片倉小十郎(景綱)は「智の片倉景綱」と呼ばれ、剣術にも長け、
幼少期の政宗の剣術指南も務めたと言われる。
政宗は良きアドバイザーと出逢い、自分自身を見事に開花させたのだろう。
やがて暗い性格から、快活で文武両道に精進する少年に変貌したという。
片倉小十郎は幾多もの決戦場では伊達家の危機を救い、
その知将ぶりは「国家の大器」として豊臣秀吉、徳川家康からも
高い評価を得、伊達家髄一の名参謀とうたわれている。
豊臣秀吉側についた真田幸村は、自らの死を覚悟した大阪城落城前夜、
敵将である片倉小十郎公を知勇兼備と見込み、子女の後事を託した。
また片倉小十郎も子孫を絶やしては勿体ないと人物と見込み、
契りを交わす。これは生涯秘密とされ、事実が明かされたのは
真田幸村死後100年程経った頃だとか。
真田幸村の娘の一人、阿梅(おうめ)は2代目小十郎重長公の後妻に
なるほど、白石城主片倉小十郎公と真田幸村公には切っても切れない
縁となる。片倉家は明治まで11代にわたって白石の地を治めました。
片倉 景綱(かたくら かげつな)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%89%87%E5%80%89%E6%99%AF%E7%B6%B1
※仙台藩片倉氏の初代で、景綱の通称「小十郎」は
代々の当主が踏襲して名乗るようになった。
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教育係を勤めたうちの一人、和尚の虎哉宗乙 (こさい そういつ)も有名。
自信を無くした政宗は、虎哉和尚に「片目では何をしても駄目か」と
問うが、和尚は中国の故事、片目にして勇猛果敢な武人、
李克用(りこくよう)の話をして励ます。
また、虎哉和尚の教育方法は変わっており、正宗に
「暑い時は寒い、寒い時は暑いという、ひねくれ者になれ」と教えます。
不思議に思った父輝宗が虎哉和尚に方針を尋ねると、和尚は
「何千もの人間を束ねる大将が、戦場で暑いからといって真っ先に
身にまとっているものを脱ぐようじゃ駄目だ。
どんな時も鎧を身にまとって中心に座を構えるのが大将たる者。
私はそれを教えようとしているのです」
深く感じ入った輝宗は、以後虎哉和尚のやり方には
一切口を出さなかったと言われています。
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最後に、名君 伊達政宗が残した句を紹介。
松島や月と言えば、伊達政宗が残した言葉が心打たれます。
「曇りなき 心の月を さきたてて 浮世の闇を 照らしてぞ行く」
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この言葉には、何も見えない暗闇の中でも
月の光を頼りに道を進むように、先の見えない戦国の時代、
自分が光になって闇を照らし、国を作り直すという思いと
自分が信じた道を頼りにただひたすら歩いてきた一生で
あったとの思いがありました。