原 敬

日本に多くの功績を遺した方の中で、

特に尊敬してやまない方がいる。

日本の内閣総理大臣第19代目を務めた

原 敬(はら たかし)氏その方である。

出身地である盛岡の原敬記念館に行くと、

まず目に入るのが「寶積(ほうじゃく)」という字が

大きく掘られた石碑。

ここには氏の生家の一部と、青年時代から

亡くなるまでの軌跡が数多く残されている。

※「寶積」とは、「尊いものを積み重ねた」という意で、

「人に尽くして見返りを求めない」

「人を守って己れを守らず」という意。

原敬氏は多くの人々に慈愛の態度で接しました。

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原家は代々、盛岡南部藩(岩手県)の家老に当たり、

将来を期待される家柄であったが、原敬15歳の時、

戊辰戦争で盛岡藩は破れ、新政府による明治を迎えた。

そんな中、父の突然の死も重なり家の収入は急速に途絶えていくこととなる。

当時、母リツは42歳。突如7人の子供を一人で育てることになるが、

慣れないながらも織物の仕事をし、家や財産を削りつつも

子供達への教育だけは熱心にさせた。

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原敬の随筆に、当時の母の思いがうかがえる。

「女手で育てられたから、ろくでなしになったと、

お前達が世間から笑われるようになっては誠に心苦しいから、

どうか皆偉くなっておくれ」と、時々皆を集めてよく言われた。

これを聞き、子供心にもしみじみ母のために

偉くならなければならないと決心したという。

そして、戊辰戦争後新政府軍から「福島県白河より

北の方全部あわせても百文の価値しか無い」と言われた屈辱を忘れず、

反骨精神を胸に、総理大臣への道を歩いていく。

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原敬は若い頃から秀才といわれてたが、

当時お金がない中でも苦学してフランス語も学ぶなど、

その甲斐と才能を買われ、新聞記者、外交官、明治政府の役人、

新聞社社長、政治家、総理大臣と目覚ましい進展を遂げる。

大正7年、日本初の正当内閣は、選挙で選ばれた政党による政治で、

国民の意見が反映されやすくなるものとされた。

原は爵位を持たないので「平民宰相」と慕われましたが、

本来は家老の家柄なので、生まれ持っての伯爵である。

(新政府からの爵位を拒んでいた)

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原敬が総理時代に行なった功績は、以下だけに限らず多くの

民を救い、守り続けた。

<総理時代におこなったこと>

・大学や高校を増やした

・漢字を少なくし、文字を読みやすくした

・鉄道や道路を新しく開通し、物を遠くまで運びやすくした

※それにより人も遠くまで行けるようになった。

・産業を促し、田んぼや畑をたくさん耕すことを進めた

・世界の国々と親交を広げ、平和関係を築こうとしていった

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※戊辰戦争の戦死者を悼む式に出席した氏は、

「戊辰戦争は政治についての意見が違っただけで、

天皇に逆らった賊軍はいない」という文を読み、

盛岡藩をはじめ、東北の汚名を返上した。

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晩年、戦争に突入するか否かという時代、

アメリカ留学の経験により実力を知る原は、冷静な判断を持ち、

戦争することは過ちだと語り続けた。

しかし、そんな中、原は戦争強硬派の一派により暗殺されることになる。

時に65歳。何度も暗殺説が流れる中、自身の死期を感じていたとされ

遺言状まで残していたという。

※当時原は、あまりにも軍国的かつ暴走していた軍に対し、

亡くなるまで直前まで戦争派を治めていた。

原氏がもう少し長く生きていたら、原爆投下を避けられたかもしれない。

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かつては、氏のように1人の背中に日本という国の運命を背負い、

日本の未来が、たった一人の存在で大きく変わるという、

命を懸け、影響を与える人物が、昔は数多くいた。

原敬は亡くなる最後の日まで国を思い、守り、ただひたすらに生きた。

一人の男の人の肩に、日本全国民の責任がかかっており、

守り続けていたことを思うと感謝せずにいられない。

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没後、95年経っても尚、原敬を慕う会他、 多くの民から

毎年命日(11月4日)の供養が行なわれるのは、

如何に人に尽くし助けてきたかが如実に伺い知れる。

氏の存在は大きく、また、氏が青年時代より亡くなる当日まで

書き続けた日記「原敬日記」は後世に多くの影響を与えた。

「原敬日記」の原本及び原敬が残した書、手紙、写真他思い出の品々、

記録など実に多くのものが展示されている。これからの日本の為にも、

1人でも多くの方がここに訪れることを心から願う。